2010年01月01日

林さゆりの履歴書

滋賀県の山と川と田圃に囲まれた豊かなド田舎に伸び伸びと天真爛漫に生まれ育つ。家は、田舎に何故か一軒はある、「よろずやさん」=なんでも屋さんを営んでいました。

子供の頃、そのお店番のお手伝いをしていた時、近所の子供(ガキんちょ達)が2時間位ねばって20円のガム1個買って帰るのを見て、私は父親に「20円のガム売っていくら儲かんの?」と聞き、「2円くらいかな?」の応えに子供心にも愕然とし・・・その時に決意したのです。私が大きくなったら、どうせ売るならもっと高いものを売るぞっと。もしかしたらその頃から「商売」が好きだったのかも知れません。そして大人になって本当にガムよりもずっと高い「思い出のアルバム」という商品を売る会社を経営しています。

私の人生の夢は「何時も子供の頃の様な純粋な心で夢みたいな事ばかり言ってそれを真剣に追いかけている「夢見る夢子状態」がずーっと一生続いている様な人生を歩みたいと本気で願っています。だからきっと私は70歳になっても80歳になっても何か新しいこと、面白いことを見つけてはチャレンジしているのだろうなって思います。

自分の頭の中の辞書に「無理」という文字はあんまり無くて、ほとんどの事を不可能とは思わない能天気さを失いたくないと思っているのかもしれません。

座右の銘は「たかがひとり、されど一人」人間一人の可能性は無限大と信じて疑わないのです。

マザーテレサさんもガンジーさんも最初は一人、その一人の力で世界中に大きな影響を与えていますよね。そんな可能性を人は誰もが持っていると信じています。人間1人の潜在能力は無限大・・・きっとそうなのです。

1965年 滋賀県で三人兄弟のまん中として生まれる。※兄と弟
1968年 幼少の頃に麻疹になり、兄弟にうつさないようにとおばあちゃんと寝かされるようになる。
※同じ敷地内の隠居という離れ。それがきっかけとなり大のおばあちゃん子になる。 
1970年幼稚園の頃、その頃からとにかく一番が大好きで何故か朝の早くから誰もいない幼稚園にとにかく一番最初に行きたくて、幼稚園の近所に住んでた男の子といつも競ってました。誰もいない幼稚園で1人で跳び箱飛んで遊んでいる変な子?でした・・・。
1975年小学校に上がっても1番が大好きで負けず嫌い、、、ただ、唯一、一生懸命練習しても一番を取れなかったのが運動会の「走り」で、運動会の前日お腹が痛くなるくらい嫌でした。
小学校の時の将来の夢は「学校の先生」。1,2年生の担任の畑山先生という先生の事が大好きだったから。
1977年 中学生になってバスケットボール部に入り部活も生徒会も勉強も何もかも頑張った。子供の頃から親に勉強しろと言われたことは無かったけど「親は仕事を一生懸命する、子供は学校が仕事なんだから一生懸命しなさい、、、」とだけ言われたのをそのまま実行していました。
1980年高校受験に失敗。挫折を味わう。滑り止めの私立を落ちて二番の高校に行く。
1981年高校になると努力しても勉強で一番にはなれないことを思い知る。頭の良い人は世の中に沢山いて上には上が居て、田舎では知らなかっただけなんだ。やっぱり「トンビは鷹を産まないんだっ」と気付き・・・?努力しても一番になれない事を思い知る。
1983年花の女子大生になって、京都の大学のサークルなんかに入れてもらいウキウキしていたときに、またもや自分の「田舎者」さ加減に大いに気付く。高校出るまで田舎から出たことが無かった私はスーパー平和堂の9980円の洋服が世の中で一番高くて上等な服だと信じていたのに・・・「ピンクハウス?ニコル?メルローズ?っていったいなんなんだっ???」
とデザイナーズブランドの洋服に身を包む周囲の女の子を見て唖然!その価格にも愕然!とする。
1985年短大卒業の年に就職活動、、、スッチーになろうとしてANAやJALを受けるも元々日本の航空会社は裸眼視力が足りず無理だったことをそこで初めて知って愕然! 結局、面接の練習でもしに行ーこおっとーっ!!!と、友達に連れられて行った某有名旅行代理店に何故か受かってしまいそこに就職。
1988年 某旅行代理店で社会人一年生を経験するも、あまりにも面白くない仕事に嫌気がさし直ぐに辞めたくなり少し辛抱して二年目に辞表を出すも親と上司に却下され、「石の上にも三年」と言われた事を忠実に守り二年と11カ月で今度は勝手に辞表を出す。※後一カ月行けば退職金が出るなんてことはどうでもよかった。とにかく辞めて早く自由になりたかった。 晴れて自由の身になり海外一人旅(ほぼ世界一周)を決行。
1989年行く前に一応次の仕事は花博の開催前の全国縦断のキャンペーンガールの仕事を決めて置いたのでコンパニオンの仕事をしてみるも、、、自分の適材適所を大間違いした職業と気付き二年で辞める。愛想笑い、作り笑顔が出来ないのは決定的に不利なのは当たり前。当時何となく自分の頭が退化する恐れを感じた私は何故かコンパニオンの衣装に身を包み1人宅建の勉強をして、試験に受かった。
1991年今度は「秘書」ってカッコ良さそうだし、秘書しーよおっとー!と思って秘書になる。同機はとてつもなくミーハー。秘書の仕事では「初めて社長が怒鳴らなくなった。」とお褒めいただく。こんなに出来る子は初めてだと評価される
1997年 小さな会社のマネージャー業務。ここでも「こんなに仕事が出来る人は初めて見た」と言われ仕事が楽しいと思えるようになる。
※ここまで4度の転職の度に海外一人旅を決行している。
1998年1人で「夢ふぉと」を開業?する。机1つ、電話1本、を月3万円で間借りして開始。「たった1冊あなたの写真集作りますよ。」という事業を始める。
2000年お金が無いなら知恵が生まれる、、、で、プレスリリースで記事になった産経新聞を見て学校教材のメーカーの社長さんから「全国で今、卒業アルバムが持てなくて困っている子供たちが居る。過疎化や少子化が原因でアルバムの価格が高騰しているのが原因。あなたのところは1冊でもオリジナルで作れるなら協力してくれないか?」とのご提案をいただき卒業アルバムのきっかけをいただく。
2002年インターネットで卒業アルバムの販売を、全国展開でしている会社は当時「夢ふぉと」だけでしたので「隙間」「ニッチ」な市場であり、ヤフーやグーグルでの検索でトップに出るようにするのはたやすいことでした。
2005年インターネットで販売を始めた頃、心の中でふと「ネットビジネスなら全国のお客様を相手に2,3人で1億規模の売り上げが行けるかも?」という何の根拠もない事を思い振り向けば本当に3人の時にそれを達成していた。
2010年「卒業アルバムどっとコム」や「卒園アルバムどっとコム」を展開しながら今後は「思い出づくり」の世界ブランドを目指し、新たなサービスや商品をさまざまな形で展開していく予定。夢はワクワクどんどん膨らんでいます。現在進行中。
posted by sayuri at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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